宮崎県の神社
鵜戸神宮(うどじんぐう)
主祭神、鸕鷀草葺不合尊のご誕生の旧蹟と伝えられる鵜戸岬の岩屋、東西約三十八㍍、南北約二十九㍍、高さ約八・五㍍、広さおよそ千平方㍍(約三百坪)の洞窟内に鎮座。社前は渺々として果てしなき太平洋から朝日が直射し、眼下数丈の絶壁には、黒潮の怒濤が岩間に奔流して、流れる日は、飛沫天に沖する。霊石亀石(枡形岩)御船岩、二柱岩、扇岩、雀岩、夫婦岩、などの奇岩がそそり立ち、岩屋を護っているが、潮煙が洞窟内に立ちこめることも珍らしくない。後背の山は、千古から斧を入れたことのない照葉樹林が生い繁り、最高地の速日峰の頂に主祭神の御陵墓伝説地の指定を受けた吾平山陵があり、地元からは「鵜戸さん」と親しまれ、全国から崇敬を受ける天下絶勝の神域である。
創建は、一説に景行天皇の御代とも、また推古天皇の六所権現建立のときとも伝えられるが、はっきりしない。桓武天皇の御代に、天台宗の僧光喜坊快久が勅命を受け、延暦元年(七八二年)秋に神殿三宇と、寺院僧堂を再建し、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を賜わったという。その後、文安二年(一四四五)の伊藤六郎四郎の起請文に「鵜戸宮牛王宝印」の文字と鵜の絵が版で刷られており、地域信仰の一つの核だったことは明らかである。『鹿児島県史料』によると、文明十二年(一四七八)の島津武久の起請文や、天正六年(一五七八)には、島津義久が大友宗麟との合戦に際し、戦勝祈願をしているなど日向の国の鎮守として、島津氏からの篤く崇敬されていた。永禄三年(一五六〇)飫肥領主伊東義祐が神殿を再興し、寛永十八年(一六四一)に領主伊東祐久が修復、宝永六年(一七〇九)から正徳元年(一七一一)の二年余にわたって領主伊東祐実が権現造の神殿など全般を新改築した。
仁王護国寺は、光喜坊快久が第一世別当となって以来、九世までは天台宗で、後三代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂、以後真言宗の別当がつぎ、二十九世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じ、そのころから鵜戸山大権現は宇内三大権現の一つで、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山といわれた。寺領は一時千石を越えたが、飫肥藩が伊東領となって以来、鵜戸領として四百三十一石の地を寄付し、藩主は毎年正月六日の修正会に必ず臨でいた。明治維新の神仏分離、廃仏棄釈で、権現号ならびに、六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却された。はじめ鵜戸神社と改称され、明治七年に鵜戸神宮(官弊小社)となり、同二十九年に官弊大社に昇格された。
終戦後、別表神社となり、昭和四十二年洞内の湿気と潮風のために神殿の老杤が進み、岩の亀裂もできて危険となったので、改修の工を起こし、全国からの浄財により、前回の造営より二百五十七年ぶりに同四十三年洞内の本殿および末社のすべてが復元された。昭和四十五年七月、かやぶきで文政年間(一八一八~三〇)に建てられたという書院造りの社務所が、原因不明の火災で、古文書類の大半とともに焼失した。同四十七年に儀式殿と社務所が再築され、そのあと神門二棟が建てられ、現在の近代的な鵜戸神宮となっている。
窟内には、維新後、吹毛井船形山にあった王子大権現を遷した皇子神社など、次の末社がある。皇子神社 住吉神社 九柱神社 火産霊神社 福智神社
窟外にも、維新後、山陵上り口に遷された稲荷神社など三末社が祭られている。稲荷神社 門守社
神仏習合時代本地堂に安置されていた六観音のうち、準胝観音だけは所在が確認されていないが、如意輪観音が日南市平山、四本久美方にあるほか、聖観音(風田、日髙弥方)馬頭観音(松永、外山幸方)十一面観音(油津上町、歓楽寺、なお『南郷町史』によると、南郷町目井津稲沢イサヲ方にも、鵜戸山にあったという十一面観音がある)、千手観音(油津上町正行寺)が現存している。
日向灘を見下ろしながら御岩屋に下る前に、神橋玉橋を渡らねばならない。この反橋は、橋板三十六枚で作られ、金剛界三十七尊のうち三十六尊をあらわし、橋を渡る本人が一尊となって三十七尊の仏をあらわすという。宝暦十年、鵜戸山別当隆岳撰の『鵜戸玄探記』に「住古より此の橋を限りとして是より奥に不浄之草履木履を履事を禁ず」とあるから、ここから素足になることは、随分古くからの風習で、子供は嘘をつくと目が眩んで渡れないと教えられ、不浄のもの、邪心のあるものを恐れさせていた。現在の橋は児湯郡穂北村三宅の庄屋で、家出して受珍といった人が架けたというが、その後修理が加えられ、橋の下に別の参道も設けられてこの風習も今はない。
いまは海岸をめぐり車祓殿前まで自動車で行けるが、戦前までは、神杉のうつ蒼と繫がる上り四百三十八段、下り三百七十七段、社殿まで八丁あるので、八丁坂と呼ばれた坂を通ってお参りした。延暦年中(七八二~八〇六)に石を頭に担いでこの坂を築いたという坊薗の尼という人があり、その石塔も残っている。
八丁坂を下ったところに、大願主別当隆岳、明和元年(一七六四)銘の雄健な不動明王の磨崖仏と、近くに閻魔王の像もある。また境内にある歴代別当の墓地と墓には古い五輪塔などがある。八丁坂、磨崖仏、墓地とも日南市の文化財に指定されている。
鵜戸山が両部神道で西の高野と称される修験道場であったことから、相馬四郎義元(正平六年-一三五一-奥州相馬生れ)が参籠して剣法を覚り一流をはじめて、念流と名付けた。のち慈音と号し、念流から中条流、富田流、一刀流などが生まれた。また足利中葉のころ、鵜戸に参籠、剣法の奥義を極めた愛州移香があり、その陰流から、その後塚原ト伝、柳生宗厳の新陰流が生まれたことから、剣法発祥の地として称えられ、いまは、その記念碑が立っている。
それより時代は古く、仏教伝来とほぼ同じころ、欽明天皇の御字、十一歳にして鵜戸窟に流された祐教礼師が、伝来した琵琶を読弾しながら、地神陀羅尼経を習って九州各地に伝えたのが薩摩琵琶の始めとして琵琶楽の発祥地ともいわれている。剣法発祥と直接関係はないが、新刀の巨匠といわれた井上真改が鵜戸の窟の霊水で鍛えた三刀を禁裡と、主君と井上家の宝剣とした記録が残っている。(伝説など)
黒潮がただちに洗う日南海岸周辺には、『古事記』、『日本書記』に書かれた山幸彦、海幸彦の民族神話が、豊かに息づいており、その神話と前後する神々も数多く祀られている。まず、鵜戸の祭神の父君で山幸彦の彦火火出見尊が狩りをされた時の行在所あとと伝える串間神社、釣針探しから三年後帰り着き上陸された所という青島神社、また、意地悪をされた海幸彦、火闌降命が逃避されたという潮獄神社がそれで、これらの伝承の中心となっているのが、当宮の伝承である。
山幸の彦火火出見尊が、兄の海幸火闌降命の釣具で、海の釣りをされたが、一魚だに釣れず釣針をなくされた。塩土老翁の教えで海神の国へ行き、海神豊玉彦の娘豊玉姫と契を結ばれ、三年の後、失われた釣針と潮満珠と潮乾珠を携えて故郷に帰られた。この折、豊玉姫は既に身重だったので、尊に向い「私は既に妊り、産期も近いので風濤の激しい日にみ許に参りますから、あらかじめ海辺に産屋を作ってほしい」と言われた。尊は海浜に鸕鷀の羽(うがやともいう)で屋根を葺き、その工事が終わらぬうちに、豊玉姫は大亀に乗り海を光らして到着、そのまま産屋に産屋を絶対のぞかぬようにとの強い請にもかかわらず、尊がのぞかれると、姫は龍(一説には鰐)になっておられたという。姫は深くこれを恥じ、子を海辺に棄て、海神の国に帰られた。それで、この御子は日子波限建鸕鷀草葺不合尊と名付けられたという。御子は、乳母などつけられ愛育されていたが、豊玉姫が御子の瑞正しさを聞き、自分の身代りに妹の玉依姫と、彦火ヶ出見尊のお歌の贈答も記紀に残っている。
鵜戸さんは、古来、安産、漁業、航海の守護神として、日向、大隈、薩摩地区の男女のほとんどは鵜戸参りするのがならわしで、近郷では、六,七歳までは必ず参詣し、これは初詣としていた。結婚した晴れの新婚旅行に、花嫁は盛装して、美しい尻掛を置いた馬の背に乗り、花嫁が手網をとるシャンシャン馬道中が、旧三月十六日に長く続き、祭礼のようだったというが、この風習も明治の中ごろにすたれた。
(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)