宮崎県の神社
鉾島神社(ほこしまじんじゃ)
日向市北東部、細島商業港に面し、入江を見渡す丘に鎮座する。航海安全の神として尊崇され、地元の人々に親しまれている。
永正年中(1504~21)、伊東三位入道が、大隈正八幡の分霊を旧富高村日知屋字平野に勧請奉祀していたが、大永七年(1527)伊東祐国が日知屋船岡山の合戦に敗れたため、現在の鎮座地細島に移し奉った。旧称八幡神社といい、後年徳川幕藩体制となり飫肥に封ぜられた伊東氏によって代々保護され、江戸への参勤交代のため細島港より上下する毎に、必ず当神社に参拝、奉斎して、祭典を執行したと言われている。神社付近の字を今なお「八幡の上」社下の市街を「八幡町」と称するのも、神社を中心にして町名を名づけたものである。
宝暦二年(1752)壬申十一月十七日の大火のため、神社の宝物、縁起記録等焼失した。ただ僅かに神職児玉家の旧系譜に「羽柴美濃守公薩州御出陣の時児玉播磨守正直に可為神職」云々の一句があり、更に天和二年(1682)児玉長谷の奉れる『口上記録控』によって、神職児玉家が累代宮司として奉仕して、その系譜を今に残していることを知ることができる。棟札によれば、元治元年(1864)六月、安政三年(1856)正月に再興されている。
なお、昭和天皇ご訪欧のとき海路の平安を祈願し奉り、記念として社殿を造営した。初め八幡神社と称していたが、大正十五年四月愛宕、大御の両神社を合わせて鉾島神社と改称した。また延宝三年(1675)六月十一日銘の鐘を有し、それには「日向国細島八幡宮」と記されている。(『宮崎県史蹟調査第七輯』)
末社 御鉾神社(みほこじんじゃ)
主祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
由緒
神日本磐余彦命は日向より船師を率いて、ご東遷の時、此の島の口(細島港口)にうの鳥が多く群れるをご覧になり、此の島は鳥辺島(とりべしま)かとの詔せになった。これが今の「とべ島」である。これより進んで今の枇榔島(びろがしま)辺りにて大鯨の海中に浮沈するをご覧になり、お持ちの鉾を以て、その鯨を突かせ給へばさながら美女に化し、天皇に向かって申し上ぐるに我は此の辺に住める者、今子を生む間、何卒一命を助けたまへと一心に申せば、天皇憐みて是を許し給へば始めの大鯨に化り海中に沈みたり。天皇詔して此の島は美女が島かと号し給へり。暫くして、追風凶くなり後に舟を返して此の島に懸らせ給ふた、その時此の地に釣する海人が小舟を浮かべて急いで返るを呼び止めになり何に故に急ぎ返るかと問わせ給へば海人どもが申すには四時日の半ばより大魚が来るからそれが恐ろしさに返ると申せば天皇曰「それは釣する日が少ない。出漁が自由でないであろう。此の後は此の島辺に来ぬ様に致して置うとて此の鉾を島に納置した故に是を三鉾神として祭るべし」とて以前鯨に突きし鉾を此の島に建てられ此れは鉾島かと詔が有ったので海人どもは大いに悦び有り難い事ぢゃこれは鉾島の鉾神様ぢゃと悦び帰った。此れより海人どもは鉾島鉾島と号へた。後世何にとはなく細の字になしたるものである。昭和九年神武天皇御東遷二千六百年の記念祭が全国に執行せられた時県下七聖地の一つとして顕彰せられ当時全国奉賛会会長故齋藤実子爵の御来町を仰ぎ盛大なる式典が挙行せられたのである。
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
大鷦鷯命(おおさぎさのみこと)
大牟須比命(おおむすびのみこと)
伊邪奈美命(いざなみのみこと)
大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
豊受気姫命(とようけひめのみこと)