宮崎県の神社
都農神社(つのじんじゃ)
西は尾鈴山、東は日向灘に面する都農川流域宮野尾の国道十号線沿いに鎮座する。地内名貫川上流の尾鈴山中には尾鈴山瀑布郡があり、国の名勝に指定されている。
都農神社は古来日向国一之宮と称え、ご祭神はご神徳の高い、大己貴命(またの御名大国主命)を奉斎する古社である。
当社の縁起によれば、神武天皇が御東遷の砌宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久をご祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝える。
その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年(837)には「都農神」として妻神、江田神、霧島岑神とともに官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年(858)神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、『延喜式』神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰せられ、日向国式内四座の一つとして登載された日向国一之宮である。
旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広濶で第三鳥居は十五~十六丁、第二鳥居は六~七丁の間に亘って建立せられた古跡が今なお認められる。天文十八年(1549)に都於郡城主伊東義祐が社殿を造営したが、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿は兵火を罹り、累世秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰した。元和元年(1615)には、昔のおもかげなしという見聞者の記録がある。その後、高鍋四代藩主秋月種政が元禄五年に再興し、同十四年には知行二十石が寄進された。元文、安政年間にも改築がなされたが、社殿神域とも縮少の傾向にあったという。
明治天皇ご践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国弊社に列せられたのである。
昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当たり、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、ご神威愈々赫々たるを覚ゆる次第である。
本殿 総ケヤキ造り(流造)8,43坪
拝殿総ヒノキ造(入母屋造)59,93坪