宮崎県の神社
諸塚神社(もろつかじんじゃ)
当社は、九州山地の中央部の山岳地帯、耳川の支流七ツ山川流域に位置する。勧請年月は不詳であるが、一説によれば桓武天皇の御代(781~805)、西海の方へ白旗が飛び去った。これを神掛の者に問うたところ、「吾は日向国旧杵之社諸塚神社也」と答えた。坂上田村麻呂を勅使として日向国に差下し、宮社を創建すると伝える。
また、一説には昔唐土の大代大八という者、この地に来りて岩窟に入り、籠居二十一日遂に出ず、里人祠を立ててこれを祀り、諸塚大白太子大明神、又は諸塚大白山大司大明神社と称したと伝える。(七ツ山神社明細帳1890年)。
本村の神山諸塚山(イザナギ・イザナミの神陵と伝えられる)の山頂には、空木ヶ原に西の神前・赤木ヶ原には東の神前と称して、山頂の諸神を遙拝する場所があり神社があった。山頂は古くから修験道場として信仰の霊山であった。
西の神殿は焼失し、東の神殿は明治四十三年十二月十九日に現在の社殿に諸塚山山頂より移転した。明治三十九年国の勅令によって神饌幣帛料を供進すべき神社の指定を受け、郷社七ツ山神社の社格となった。その後大正十四年、旧称七ツ山神社を諸塚神社と改称する。
現在山頂には東の神殿跡に、諸塚神社元宮を平成二年に建立している。その傍らには神武天皇御遊幸記念碑が、紀元二六〇〇年を記念して建立されている。(昭和十六年)
当社の下流に立岩大明神があり、その昔、川沿いにそびえる高さ数丈なる子持岩の下に数畳敷きの窟があり、天之御中主命をお祭りしていたが、年代不詳の大洪水で大神の御霊代は栂の節に乗り、美々津に流れ着いた。村人これをとりおくも、尋ね来たる者なくつとにここに奉斎せり。いまは大神を諸塚神社に合祀せり。立岩の里人今も栂の節を焚かずとの言い伝えあり。その岩が昭和三十一年一月十日午後一時頃、大音響とともに割れて落ちた。現在はその上に大明神をお祭りし、秋の大祭では御神幸祭の御旅所となっている。
国常立命(くにのとこたちのみこと)
国狭槌命(くにさづちのみこと)
泥土煮命(ういじにのみこと)
沙土煮命(すいじにのみこと)
豊斟渟命(とよくむぬのみこと)
大戸道命(おおとのじのみこと)
大戸辺命(おおとべのみこと)
面足命(おもだるのみこと)
惶根命(かしこねのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
品陀和気命(ほんだわけのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
建速素盞鳴命(たけはやすさのおのみこと)
大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
天明玉命(あめのあけだまのみこと)
天神魂命(あめのかんみたまのみこと)
天饒速日命(あめのにぎはやひのみこと)
天表春命(あめのうえはるのみこと)
天下奉命(あめのしもまつりのみこと)
淀姫命(よどひめのみこと)
500年以上の歴史があるというこの神楽は、現在(平成27年)、諸塚村立岩地区の15世帯が中心となって継承されている。毎年、日中に舞われるが、事業成就を願う年などに奉納する神楽は大神楽と呼ばれて夜通し舞われ”幻の神楽”とも言われる。
平成27年2月28日~3月1日は神社そばにある立岩公民館の新築落成を記念して奉納された。