宮崎県の神社
菅原神社(すがわらじんじゃ)
弘安四年(1281)蒙古の役に武功があった河野伊予守通広(社家、境田新左衛門祖先)、の四世の孫通安が、明徳三年(1392)薩州伊佐郡祁答院に移住、堺田村に小社を建て天満神を安置した。その子伊予守通正の代に日向西諸県郡真幸院吉田に移住、北原氏の家臣となり、これより河野改めて境田氏という。通正建山の上に天満神社を建て吉田の鎮守とする。その孫境田藤右衛門長友当社を再興。長友が孫境田対島守満元享禄四年(1531)辛卯天満社を槻ヶ牟礼に遷す。その子孫世々社職である。島津義弘公義久公等当社を崇敬し天正十年(1582)五月二十五日義久公和歌を宝殿に納め、慶長十九年(1614)七月には義弘神領二十石を寄進したが、のち没収された。又義弘公光久公連歌を奉納した。元禄十三年(1700)庚辰二月三日社殿焼失、同十六年(1703)三月新築する。この時、ご神体は川上の柳原の地に飛び去り少しも損傷がなかったため、飛び神像と称されるようになった。
当社の旧址建山の上は自田を開くことを禁ずる。もし禁を侵すものあれば、その人必ず殃禍を受けるという。祭祀年中三度、二月卯日(打植祭)六月二十九日(夏越祭)、十月二十日がこれである。十月二十日には華表の外に神輿を守り下て、神楽を奏する祭典がある。これを浜下りという。浜下の所にて、別に供物を碗に盛り、社司飯野白鳥山に向かって、これを白鳥権現に献ずるとする。社司を押領司氏、別当を観音寺という。当吉田郷の総鎮守であり、当社は古来種々の霊験著しいとして、人々敬仰し、参詣の徒が絶えない。
当社は、現在、二月十一日の建国記念祭が定着して盛大となり、七月二十五日・夏越祭の茅の輪くぐりは昔ながらに継続され、十一月二十三日の新嘗祭も「ホゼ祭」の名で親しまれ、伝統を保持して関心を増しつつある。
○菅原神社(天満大自在天神宮)の仁王像 市指定文化財(平成七年七月十七日)
仁王像二対の制作者は、毛利七右衛門で、享保十年(1725)四月二十一日八代将軍吉宗の時代に建立されたもので、精かんな風貌をして郷土を守護してきた仁王像である。
大山津見神(おおやまつみのかみ)
七月二十五日 夏越祭(茅の輪くぐり)
十一月二十三日 新嘗祭(ホゼ祭)