宮崎県の神社
立磐神社(たていわじんじゃ)
神武天皇ご東遷の際、美々津港よりお船出にあたり、航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎してのにちなんで、第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝える。永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり、祭礼神事行事も整い殷盛となっていた。しかし、天正六年(1578)に至り大友氏との耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和六年(1623)、寛文八年(1668)、宝永二年(1705)、享保九年(1728)、享和九年(1903)に再興されている。高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によれば、神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に寄進を受けていた。さらに境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として崇拝している。往古より立磐権現あるいは立磐大明神と称してきたが、明治初年立磐神社と改称し、同四年郷社に列せられ、同四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年の神武天皇ご東遷二千六百年記念事業として、境内の拡張、社殿の修築をなし、記念碑が建立された。さらに沖のお船出の瀬戸に永久に神のみあかしを献灯する意味で、竜神バエに岩上に住居灯籠を模した灯台が設置された。
昭和17年、境内には、時の内閣総理大臣であった海軍大将米内光政の揮毫による「日本海軍発祥の地」の記念碑が建立された。またご東行巡路漕舟大行軍を挙行した。これは神武天皇ご東遷の際のご使用の船を形って新しく船を造り、「おきよ丸」と命名し、日向国の青年150名が漕舟して昭和15年4月18日美々津港を船出し、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、某月28日浪速(大阪)に上陸、御楯を捧持、陸路橿原神宮に奉納した。
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
神武天皇(じんむてんのう)