宮崎県の神社
神門神社(みかどじんじゃ)
当社はもと神門(三門)大明神と称し、養老二年の創建と伝える。特殊な神として百済の禎嘉王を合祀している。社殿によれば、天平勝宝八年(756)百済大乱により禎嘉王一族日本に逃れ、二年後美々津金ヶ浜に上陸し神門に留り澄んだが、追討軍があり次王子華智王は東郷町伊佐賀にて戦死(伊佐賀神社合祀)、禎嘉王は矢傷が元で崩じ塚原に葬り当社に合祀したとある。なお、妃は高鍋町鴨野大年神社に合祀、王子福智王は木城町比木神社に合祀している。明治四年田爪若宮八幡神社、落原地主神社、仮屋愛宕神社、黒岩天満神社を合祀し、神門神社と改称、翌五年郷社に列せられた。さらに大正二年には境内三社を合祀した。
宝物として禎嘉王が持って来たといわれる須恵器の甕や有馬公寄進の甕の他、古鏡三十三面、板絵著色観音菩薩御正体、馬鐸、馬鈴等を有している。中でも古鏡三十三面は、漢・隋・唐式鏡から平安以降各時代の鑑鏡で、すべて出土の痕跡のない伝世鏡として、応永八年(1401)神門大明神社御正体として描かれた板絵著色観音菩薩御正体とともに、県の有形文化財に指定されている。
当社の特殊神事に師走祭りがある。王の眠る神門に王子や王妃らが訪れ、年に一回の対面をして親しみ合うもので、旧十二月十四日より九泊十日で行われていたが、現在は二泊三日の行程になっている。伊佐賀神社で比木神社を出迎え出合神楽を奉納、その後禎嘉王の御陵である塚原を三周し、神門に到着。当社鳥居前に至り祭典・神楽奉納をし、本殿に両祭神奉鎮する。翌日、御衣替えののち、禎嘉王を助け協力した土地豪族どん太郎の森塚(県指定文化財)に行き、将軍舞、山宮社で田植え神楽を奉納し、小丸川では野焼きとお洗濯の神事がある。夜は夜半過ぎまで高鍋神楽が奉納される。最後の朝は、古式の食事をし、別れを惜しんで墨(現在は白粉)を顔につけ合い御還幸となる。見送りの人等は炊事用具を持ち「オサラバー」と見えなくなるまで見送る。比木神社が神門に着くのを「上りまし」帰るのを「下りまし」という。
その他、十月十七日の例大祭には臼太鼓踊りが奉納される。
○神門神社本殿(国指定重要文化財:平成12年12月4日指定)
棟札より寬文元年(1661)の建立と考えられ、自然石の礎上に建つ、宮崎県内唯一の七間社流造で、平面は身舎のうち桁行五間・梁間二間を板敷の内陣とする。屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとする。
簡素で装飾の少ない流造であるが、類例の少ない平面形状に特色がある。本殿各部の形式や意匠は、一部変更はあるが旧規が明らかである。
中世的な技法や要素を残しながら、近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部に於ける本殿建築の発展を知る上で重要である。
品陀和気命(ほんだわけのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
事解男命(ことさかおのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
禎嘉王(ていかおう)