宮崎県の神社
祇園神社(ぎおんじんじゃ)
創始の年代は詳らかでないが、欽明朝時代といわれ、曾男神蘇民将来・巨旦将来を合祀して祇園社と称し、疫病除け、厄難消除の守護神として知保郷の崇敬者が多かった。その後、文徳天皇の天安元年(857)肥後国曾男神に将五位下を授くと『文徳実録』にあり、祇園神社の曾男神であるといわれている。貞観十一年(869)に山城国八坂神社より素盞鳴大神を勧請して祭祀し、伊弉冉大神、大名牟知大神、奇稲田姫尊を合祀して五穀豊穣の守護神として、郡内並に阿蘇郡内の屈指の神社として現在に至っている。
元久二年(1205)那須大八郎宗久・宗昌参拝し栃の木を植えたと言い伝えられている。天正六年(1578)大友宗麟の兵により当神社他三社は焼失し、宝物文献等が焼失したが、御神体は北の殿に移し、享保五年(1720)まで百四十二年の間、北の殿にて祭祀されていた。享保五年(1720)神殿を再建し、さらにまた天保六年(1835)に北の殿の大ケヤキを以て神殿を再建、六月十五日に遷座祭を斎行したとの文書がある。もともと神殿の屋根は草葺で約十八年毎に葺き替えが行われていたが、昭和五十二年天皇陛下御在位五十年記念並びに宮崎国体山岳競技開始式場記念事業として、氏子崇敬者の寄進により神殿は銅板葺に改修、拝殿は銅板葺に増改修した。現在の社殿がそれで昭和四十九年に町文化財に指定された。『日向地誌』によれば、大己貴命、素盞鳴命を合祀し、旧称祇園大明神といったが、明治四年日陰神社と改めたとある。その後、明治四十三年に、明治四年まで熊野三社権現と称した折立神社(祭神:伊弉冉命、伊弉冉命、事解男命)、冠八面大明神と称した清水神社(祭神:八岐大蛇)、浜妙見と称した長司神社(祭神:水波女命)の三社を合祀し、昭和十年二月祇園神社と改称した。
※特殊神事
当社の夏祭は延宝二年(1674)に始まったと伝える、蘇民将来の伝承とかかわりがあるという、荒谷地区の氏子による麦餅焼きがある。また、この地区に疫病が流行したことがあり、その平癒祈願をこめて麦餅を奉納したとも伝える。さらに疫病除けの信仰と結びついた茅の輪と意趣を同じくする森巻きの神事があり、スサノオノミコトの大蛇退治の伝承につながりがあるという。芸能では祇園神楽があり、近郷にその形態の神楽は見られない特殊な神楽である。又棒術がある。これは大車流棒術で神陰流である。それに子供薙刀、また平家の流れを伝える臼太鼓踊りがある。



大己貴尊(おおなむちのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
速玉男尊(はやたまおのみこと)
事解男尊(ことさかおのみこと)
水波女尊(みずはのめのみこと)
八岐大蛇(やまたのおろち)
御神幸祭・祇園神楽・心影太車流棒術奉納