宮崎県の神社
的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)
当宮は、和銅三年(710)、大隅国国分正八幡宮(鹿児島神宮)を勧請して創建したと伝える。今の三股・山之口。高城の地にあたる三俣院の宗廟・鎮守として広く崇敬をうけていた。
天文年間(1532~55)三股兵乱の際藩主島津家立願ことごとく成就した事により、それを謝するため、山之口郷花木村・高城郷桜木村の内に神領田を付し置き、祭典の節は神饌を供えたと趣古書には明らかであるが、何時廃されたのかはわからない。しかし旧藩時代は、毎年祭米一斗七升五合あて下渡された。棟札によれば、天文四年(1535)、永禄元年に再興され、その後、慶安五年(1648)、元禄十一年(1698)、宝永三年(1706)に藩主によって社殿の造営が行われている。明治四年七月郷社に列せられ、的野正八幡宮を圓野神社に改称し、明治四十年二月、神饌幣帛料供進の神社に指定された。その後、平成十四年に幣拝殿を改築したのを機に、平成十五年に元の名号的野正八幡宮に改称した。
『三国名勝図会』等によると、当社は古来正月元日から七日の間、神忌と称して高声を発するのを禁じている。それは、『日向の伝説』では「文政九年(1826)の明き、官吏が来て当社を修築した。作業場を当社の右にある牛洪宮の側に立て翌年の正月に及んだ。土人が高声の禁忌の事を告げ七日の間造営を罷めるように申し立てた。しかし官吏はなかなか聴かなかった。そして二日から造営を促し既に五六日に至った時、作業場から火が発り木材悉く灰燼となった。その時火花が頻りに側の社に散乱し、人々は神社が鳥有に帰するものと思った。しかし社殿は焦げさえしなかった。土民はこれを神霊の威力によるとし、愈々敬し愈々慎んだという」と説明している。
特殊神事として、十一月三日(以前は陰暦十月二十五日に行われ、又、当宮より都城高木まで御神幸していた。)の御神幸祭に三つの神輿が神功皇后をお祭りしてある池之尾神社の仮殿まで下る。その浜殿下りの先導として、朱面を破り大小の刀を佩いた一丈余の大人弥五郎どんが、四輪の車に乗せられ数多の子どもに推されて偉風堂々と下る。儀衛中に多くの武具を携えるのは、北郷忠相が当邑を領した時に始まり、昔は流鏑馬も行われていたという。御旅所に着くや、祭典に続き浦安の舞・太郎踊・矢旗踊など、その他数多の奉納踊があり終日賑う。近郷近在からの参拝者も多い。御神幸(弥五郎どん祭り)は養老四年(720)の隼人の反乱の多くの犠牲者(隼人の霊を慰める為に全国の八幡神社(系)で放生会を行わされていた。その中でも南九州では大人人形を作り放生会(ホゼ)祭を行い、現在残っているのが当宮と鹿児島岩川、日南の三ヶ所であり、又その中でも昔ながら(素朴)に霊慰め、五穀豊穣、諸安全、繁栄を祈して(ホゼ)祭りを斎行している。
また「二月初卯の日にも祭があり、この日は田鍬初といって牛の形を造り墾田の状をなし、なお木刀踊がある」と伝える。
誉田別命(ほんだわけのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
御鎮座千三百年記念事業として本殿修復、拝殿改築
7月25日 夏祭(六月灯)
11月3日 弥五郎どん祭り