宮崎県の神社
田ノ上八幡神社(たのうえはちまんじんじゃ)
『日向地誌』によると、彦火々出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。大隅国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その地の一宮正八幡の神体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年庚寅十月二十五日創建すると伝える。島津氏が飫肥を領した時代にも大いに崇敬したが、伊東氏の飫肥初代主伊東祐兵(報恩公)が楠原八幡原にあったのを現在地に遷座したともいわれる。(天正十六年、『日南市史』による)伊東氏が領主となってからも、領内尊社四座の一つとして社禄五十四石八斗を寄付し、尊崇が篤かった。
明治四年、寄付禄も廃止されたが、同五年鳶が峯西麓の春日大明神、今町の北にあった広木田大明神、加茂東隅の加茂大明神、中島田東麓の糺大明神、願成就寺原の北の大将軍の五座を合祀し、板敷神社となった。このため、外七柱の祭神は次の通り。
蹈韛五十鈴媛命(たたらいすずひめのみこと)
磐長比咩命(いわながひめのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
国常立命(くにのとこたちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
別雷命(わけいかすちのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
明治二十四年に、再び田ノ上八幡神社と改称され、同四十年二月、神撰幣帛料を供進すべき神社に指定された。
明治五年までの十月二十五日の例祭には、流鏑馬二頭が祭りを盛り上げ、長人弥五郎の偶人形が町内を練り歩いた。流鏑馬はいつかすたれたが、竹龍を編んだ一丈半以上の巨人の人形が衣袴を付け、長刀を帯び、右手に長槍をつかせ四輪車で子供たちが引く弥五郎の神賑行事は、町の電線に触れるなどで中絶されたこともあるが、いまなお続けられている。
この弥五郎は、鹿児島県の岩川八幡などで同様な行事が行われている。『日向地誌』は「弥五郎は、稲積弥五郎の縁故なり」といい、寛政年間の薩藩の自尾国柱の著書で、武内宿祢とか、川上梟師をかたどったものとかの言い伝えがあることを紹介、みな八幡神社の神輿渡御の先駆をしている点から武内宿祢を擬したものではないかとしている。
「神社明細帳」 によると、境内神社一社、末社門守神社、祭神豊石窓神櫛石窓神
境内の楠は、伊東祐兵が楠原字八幡原にあった八幡神社を天正十六年(1588)、現在地に移した記念に、祐兵自身が手植えしたと伝えられ、樹高30.5㍍、周囲8.8㍍、樹齢三百八十年といわれ、日南市の天然記念物に指定されている。
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
萬幡比咩命(よろずはたひめのみこと)
田心比咩命(たごりひめのみこと)
天押雲命(あめのおしぐものみこと)
外七柱