宮崎県の神社
山宮神社(やまみやじんじゃ)松永
創立は不詳だが、棟札の写しによると、延宝三乙卯(1675)歳三月再興とあり、和銅年間云々の文もあり、かなり旧い創建とみられる。
松永は広渡川(東川)下流左岸、鵜戸山系東岳の麓に位置し、水利豊かな耕地が広がる。天文年間から永禄八年(1565)にわたって、都於郡領主伊東義祐(三位入道)が飫肥城島津氏との攻防で、争奪を繰り返した鬼ケ城跡は、東弁分村と界し、水ノ尾城(貝殻城)と山続きである。伊東氏の飫肥領主三代を継いだ祐久が弟祐豊に松永など三千石を分知し、元禄二年(1689)孫祐賢が旗本蔵米取りを願出たため、松永村は幕府領となった。広渡川下流の伊東領の用水を確保するため、天領となる際、飫肥藩は井堰の水番四家を村内に移住させた。旧伊東領の古い神社の造営には、必ず伊東家の領主の名が出て、神領も寄進されているが、当社ではその後元禄二年(1889) 二月、享保九年(1724)九月、安永八年(1779)九月の造営の棟札には、神主と大工の名が記録されているだけである。明治になってからは、二十五年に改築され、明治三十九年、神饌幣帛料供進社に指定された。現在の社殿は昭和三十年の造営によるものである。
『日向地誌』によると、旧称を山宮大明神といい、明治五年、川津留の諏訪大明神、右田の大将軍の二小社を遷座合祀し、今の名に改めた。また、二祭神のほか祭神に健御名方命があげられている。鎖鎌の武芸で伊東氏に仕えた倉田某なる武士が出陣に際し、主命により北郷町曾和田の神社に預けたご神体が、洪水で松永に流れ着き、村民に祭られていることが、後にわかった。そのため、宵宮には必ず仕えよとの家訓が残されている家があり、それが本社か、別に祠の残る大将軍かは、はっきりしない。
境内には松永祖霊社が祀られ、神葬祭の氏子七十世帯が、春分、秋分の日に霊祭を行なう。毎年春、五穀の豊穣と家内安全祈願のために、区主催による春まつり、神楽が特殊神事として受け継がれている。
磐長姫命(いわながひめのみこと)