宮崎県の神社
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)
記紀にある「天岩戸」を御神体とする神社。徒歩10分の所に、八百万神を祀る「天安河原」あり。
九州山地の中央部、高千穂町の東に位置し、地内を流れる岩戸川岸に鎮座する。当社周辺には、県の史跡に指定された岩戸古墳が散在する。当社の由緒は、記紀に皇祖天照大神が、弟の素戔嗚尊を御避けになられ、暫く天岩戸へ御籠りなされた事を記してあるが、当神社はその霊蹟「天岩戸」を斎い奉る社である。天孫瓊々杵尊が御降臨され、初て天が下知食し給ひし時に斎い創め給われたと伝える古社で、境内(西本宮)対岸の断崖の中腹に天岩窟があり天照皇大神が籠らせ給いし処と伝え、古より其御神域を御神体として祭祀している。社殿は御霊代鎮祭の東本宮(氏神社)と天岩戸直拝の西本宮(天岩戸神社)であり、岩戸川の渓谷を挟み御鎮座する。昌泰(898~901)の記録に、天照皇大神天岩戸より御出ましの節、思兼神其の御手を取り、東本宮の土地に御造営の御社殿に御鎮り願ったと記してある。弘仁壬辰三(812)歳中秋、三田井侯の遠祖、大神太夫惟其公、霊夢に恐惶して荒廃せる東本宮社殿を再興し、深くその神明を崇敬した。しかし、戦国の乱世に炎上し、以来幾多の汚隆顕晦を経て、宝永四丁亥年(1707)に至り漸く再興の緒に着き、それより藩主の崇敬頗る篤く、弘化三年以来藩主の参詣が度々あった。皇室の崇敬も厚く、陛下の御代参、秩父宮、同妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、常陸宮殿下外皇族、侍従の代参等、御参拝があった。往時は、名士の尊崇をうけ、大宝年間、京都の神祇官、卜部朝臣参拝、寛政の奇士、高山彦九郎参詣紀行、薩摩の歌人、八田知紀、三井寺の座主、伊井大老を討ちたる水戸の烈士、井上主人義秀等八名参籠あり。又、江戸時代には江戸の旗本、奥女中、商人等の崇敬をうけ石燈籠をはじめ数々の寄進の品がある。
『日向地誌』によれば、天岩戸神社について、天照皇大神を祀り旧称天磐戸といい、明治四年今の名称に改称したとあり、氏神社について、伊邪那岐尊、伊邪那美尊を祀り旧称氏神といい、明治四年今の名称に改めたとある。その後、氏神社の御祭神は、昭和五年二月天照皇大神に変更された。昭和四十五年三月、天岩戸神社、氏神社の合併が商人され、天岩戸神社西本宮、東本宮となり、同四十六年七月別表神社に加列された、昭和六十年、本殿、拝殿、お旅所、神楽殿、内玉垣の改修に着手し、翌六十一年四月竣工した。
例祭は五月二日と三日が西本宮祭で、豊作と平穏を祈る願掛け祭りである。東本宮祭は九月二十二日と二十三日の両日に稔りと平穏を感謝する願ほどきの祭りとして行われる。祭りには二基の神輿に棒術組、神面(男面の手力男命、女面の天鈿女命)たちが従い棒術や荒神舞が披露される。十一月三日には、国の重要無形民俗文化財に指定されている高千穂の夜神楽の一つである岩戸神楽三十三番が公開まつりとして、朝十時から夜の十時まで舞い続けられる。又十月二十一日には天安河原宮祭りが斎行される。神社周辺には天安河原・天の浮橋・天御汐など神話の伝説地が残る。西本宮境内には天岩戸神社徴古館があり、考古資料など二〇〇〇点を展示、古代高千穂地方の貴重な学術資料である。
東本宮 拝殿24.62坪 幣殿6.58坪 他