宮崎県の神社
大宮神社(おおみやじんじゃ)
社縁起によると、景行天皇熊襲征伐のおり、本園遊地に立ち寄り休息されたところという。その後和銅元年(708)、素戔鳴尊外二柱を祀る。『日向地誌』によると「社地内に老楠二株あり、いずれも、六、七百年を経し老木なり」とある。また文明二年(1468)藤原忠続寄進の古鏡ありとしているが、老楠は現在、樹齢七百年以上と推定され、根回り13.9㍍、高さ18.4㍍の巨木で、高さ二㍍のところで椋を抱きこみ繁っており、国の天然記念物の指定を受けている。数年前、近くの大川田に楠の老木が埋れているのが発見され、約三首年前、広渡川の氾濫で流され、土中に埋まったもので、往時、夫婦楠と呼ばれていのといわれる。
古鐘は現在失われているが、忠続は、当時飫肥城主だった新約近江守忠続で、島津の族将だった。永禄五年(1562)、伊東義益が再建、寛永十四年(1637)伊東祐久、貞享四年(1687)伊東祐実が相次いで営繕、社禄十二石五斗を寄進した。旧称は大宮大明神といい、明治五年、神田にあった皇子権現(襲津彦皇子を祭る)土楽ヶ迫の諏訪大明神、神田の大将軍の三座を遷座、合祀し現社名に改称した(『日向地誌』)。明治四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定されている。『日向国神祇史料』には三祭神のほか岩長姫命も祭神にあげられている。襲津彦皇子(そつびこのみこ)は、『日本書紀』には、景行天皇と次妃日向髪長大田根姫(かみながおおたねひめ)との間に生れた皇子として出ており、隣り地区には、同様に景行天皇の熊襲征伐のとき、ご駐輦の跡と伝える伝説地があり、髪長姫を祭る益安神社がある。境内には門守社、祭神櫛磐窓神、豊磐窓神の二社がある。
特殊神事には、昔から二月はじめの初午に五穀の豊穣を祈願する初午神楽が奉納される。また旧暦の一月十日に稲の品種選び稲初植祭が行われる。斎主の祝詞奏上ののち、神歌で年の始を寿ぎ、神前、東、南、西と歌いつぎ、西は「千代千代と波のをりめは七をりめ八重のをりめに福の種を蒔く」と歌い収め、秋穂の方を決め、社人が鋤で作られた田の形に彼岸花の根(凶作のときの救荒植物だったといわれる)で田植えをする、年ごいの祭である。
甲、乙地区の御旅所に一年交代に巡幸される例大祭のご神事には、獅子舞保存会の青壮年による二頭獅子舞いも奉納される。
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)