宮崎県の神社
下富田神社(しもとんだじんじゃ)
古社なるも創建年代不詳なり。棟札によれば佐土原藩第八代藩主源御朝臣忠持公(藩主在任1785~1816)御武運長久御息災延命御子孫繁昌御家中御領内安全、祈願、社殿再興とあれども、鮮明を欠き再興年月日読み取る事能わず。御神徳、海上怒濤鎮撫の神と仰ぎ奉る。
島津藩主は殊に信仰厚く、祭典当日には献饌の儀ありたりと聞く。当時、神田二反歩を附し、祭祀の資に充てたりしも、農地改革により、王子地区民の所有に帰し以後之を権現田と名付けた地跡があったが、県営圃場整備富田干拓事業に依り、形跡を留めていない。
古来、当神社を王子権現と称していた。
此の地は昔、神武天皇の御幼少時代、遊行の御跡と伝えられ、その名があるという。
新富町王子の浜は、一ツ瀬川の河口に位置する太平洋岸の荒磯である。
『日向の伝説』によると、王子の浜は、波浪が高く、津波の押寄せることも度々で、そのたびごとに、家や人畜がさらわれ、田畑も洗われるので、人々は困りぬいていた。この上は、王子の浜崎に御鎮座の権現様におすがりする他はないと、浜が荒れ始めると、村の人たちは、社頭に集り、風波をお鎮めくださいと心をこめてお祈りした。海が大荒れに荒れ、山のような大波が押し寄せるある日、村人たちは、舟を陸に上げ、松の根元につなぎ、村人総出で権現さまに祈願をこめ続けていた。それでも風は吹きつのり、海は刻々に荒れ狂った。折から純白の鳥が、吹く風をものともせず、浜辺に舞い降りた。村人が怪しんで目を見張るうちに、その白い鳥は荒れ狂う海波を蹴って縦横無尽に翔け回った。すると海は油を流した春の海のように、瞬く間に静かになった。このことがあってから、王子の浜に津波が襲うことがなくなり、人々は権現様のご利益と称え奉った。この一羽の鳥こそ権現様の化身であったと伝えられている。
塩釜大神(しおがまのおおかみ):塩土老翁(しおつちのおきな)