宮崎県の神社
三宅神社(みやけじんじゃ)
三財川支流山路川流域に位置し、当地は古代の日向国府の所在地とみられている。地名の由来は、古代屯倉が置かれていたことにちなむと伝える。付近には、昭和二十七年国の特別史跡に指定された西都原古墳群が広がる。古墳群は公園として整備され、昭和四十一年風土記の丘に指定された。付属施設として西都原資料館などもある。
当社は旧称を覆野大神宮、福(覆)野八幡宮、覆(野)神社と称し、建久八年(1197)の「建久図田帳」にも「福野宮神田二五町」と記され、それ以前の創建とみられる古社である。古来三宅郷ならびに、右松村の産土神で三宅・清水・黒生野・現王・岡富・右松・調殿・童子丸・南方・穂北の宗廟であった。歴代領主の崇敬を受け、土持・伊東両氏より五十五町八反の社領が寄進され、弘治年間(1555~58)には神田十八町三反余、畑六反、神戸十八、神苑106ヶ所を付近一帯に有していた。天正年間兵火にあったが、島津義久が再興した。その後文化七年(1810)十二月十六日火災にあい、旧記・宝物等殆ど焼失してしまった。社職も大宮司、権大宮司、主税儀大宮司、器大宮司などがあったといわれ、年間の祭典も九十七回に及んだ。応永元年(1394)から行われてる天孫降臨祭(六月夏至)・国家安穏祭(八月五日)・山陵祭(十月一日と十一月初卯の日)の当社三大祭りは、京都加茂の祭式にも比すべき荘厳なものであったといわれ、古社の趣がしのばれる。江戸時代後期には西都農神社と改称し、明治四年三宅の地名をとり、現社名に改めた。
当社の御祭神について「宮崎県史蹟調査報告」によれば、邇々杵命を正殿中央に、天児屋根命天太玉命を左右に配祀し、相殿には大物主命、石凝姥命、木花開耶姫命、神日本磐余彦命、応神天皇を祀り、更に降臨に供奉した六十四神をこれに配した。摂社には大山祇命、事勝国勝長狭神、火闌降命等の七神、末社には倉稲魂命、合社には保食神、門社には豊磐間戸命、櫛磐間戸命を祀る。合計すると八十四神になる。さらに、明治五年、三宅村字山路の川上神社、五穀社、天満社、字上ノ宮の五穀社、霧島社、字酒元の筑波山篠貫社、字石貫の今宮社、字山王の山野社等の三十九神を合祀したと記している。
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと)
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
玉屋之命(たまやのみこと)
大物主命(おおものぬしのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)