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熊野神社(くまのじんじゃ)高鍋町南高鍋雲雀山
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天保四年(1833)に提出された『高鍋鎮座神名帳』によると勧請年月は不明であるが、寛文元年(1661)享保七年(1722)にそれぞれ再興された。祭礼は十一月十二日の由が記されている。元来雲雀山村内にあったが明治四十二年二月二十五日高岡へ移転した。
熊野神社は熊野三所権現を祀り、同所にある三体の石像も修験道に関係がある。中央に不動明王、右に役の行者、左に理源大師の像があり、文化五年(1808)七月宮崎古城大越家円立院作の刻銘がある。元水谷原で祀っていた。二百十日に祭礼を行い、当日は農家の参拝者の多かったのは、この祭礼に護摩を焚き農作の祈禱を行ったからであり、その場所を尊称して「ゴマサ」と云ったものである。
一、ゴマ様と熊野神社と石像
明治四十二年熊野神社を移転したのには次の理由がある。高岡山のことを通常「ゴマサ」という。「サ」は「サマ(様)」の約音である。「ゴマ」とは梵語のHoma 梵焼、火祭の意である。密教で火炉を設け、智慧の火で煩悩の薪を焚き、真理の聖火を以て魔害を焼尽くす標識とし、不動尊を本尊とし、その前に檀を設け行う修法である。息災、増益、降伏鉤召(まねく)、敬愛の五種がある。
「高岡山」はその護摩が行われたところである。地福寺本寺の恵成院が寛政五年(1793)七月八日、高岡山に一二間四方の護摩法檀場(護摩を焚く檀)を作ることを願い出て許可され、十月一日に護摩法要を行った由が、『旧記抜書』巻二、『続実録』巻八に記録せられている。
熊野神社は熊野三所権現を祀り、同所にある三体の石像も修験道に関係がある。中央に不動明王、右に役の行者、左に理源大師の像があり、文化五年(1808)七月宮崎古城大越家円立院作の刻銘がある。元水谷原で祀っていた。二百十日に祭礼を行い、当日は農家の参拝者の多かったのは、この祭礼に護摩を焚き農作の祈禱を行ったからであり、その場所を尊称して「ゴマサ」と云ったものである。
一、ゴマ様と熊野神社と石像
明治四十二年熊野神社を移転したのには次の理由がある。高岡山のことを通常「ゴマサ」という。「サ」は「サマ(様)」の約音である。「ゴマ」とは梵語のHoma 梵焼、火祭の意である。密教で火炉を設け、智慧の火で煩悩の薪を焚き、真理の聖火を以て魔害を焼尽くす標識とし、不動尊を本尊とし、その前に檀を設け行う修法である。息災、増益、降伏鉤召(まねく)、敬愛の五種がある。
「高岡山」はその護摩が行われたところである。地福寺本寺の恵成院が寛政五年(1793)七月八日、高岡山に一二間四方の護摩法檀場(護摩を焚く檀)を作ることを願い出て許可され、十月一日に護摩法要を行った由が、『旧記抜書』巻二、『続実録』巻八に記録せられている。

ご社殿

入口鳥居

境内
地図 [KML] [地図表示] | |
電話番号 | (0983)23-1728 |
郵便番号 | 884-0003 |
住所 | 宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋雲雀山11576 |
御祭神 | 速玉男神(はやたまおのかみ) 事解男神(ことさかおのかみ) 菊理日売神(くくりひめのかみ) |
旧社格 | 村社 |
御神徳 | |
社殿 | 本殿(神明造)1.5坪 拝殿(切妻造)7.5坪 |
創立年月日 | 不詳 |
例祭日 | 十一月十二日 |
主な祭典 | |
文化財 | |
駐車場 | |
最寄ICからのアクセス | 高鍋ICより車で約15分 |
最寄駅からのアクセス | JR高鍋駅より車で約15分 |
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