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綾神社(あやじんじゃ)
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綾神社の由緒は古く、天長年間(824~833)の創建で、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の三柱を正祀とし三宮大明神と称し、国の安泰・五穀の豊穣・家内安全を祈るところとして建立されたと伝える。
当社勧請については、次のような言い伝えがある。
「天長八年(831)この村の大空に八流の旗が流れ降った。人々は奇異の思いをなして打ち仰いだ。その時豊前の国宇佐の大宮司が七十五人を従えて尋ねて来た。彼等は宇佐八幡の『大空に旗を投げろ、その旗の落ちた処に鎮座して衆生を救おう』という託宣に従い、旗の後を慕って来たのであった。かくて、ここに三柱の神が鎮まりますことになったのだ」と伝える。また『日向地誌』諸県郡綾郷南股村・綾神社の頂に「(前略)旧称三の宮大明神と云ひしを明治三年庚午今の名に改む 相伝ふ本社元と本荘村神馬峰八幡宮なり 社祠宮永某の先神祇大夫実益故ありて綾に来り創建する所なりと年月詳ならす(後略)」とある。社司宮永氏の先祖宮永神祇太夫実益が勧請したとも伝える。実益はもと本庄村神馬峰八幡社の権祝であったが、当地へ移住、五ヶ所という地に祀った。その後天和元年(1681)現在地に遷座し旧地には小祠を建てて故宮と称した。
天和年間と天明年間に改築がなされ、明治初年には大修築を行い、町内二十五社を合祀して「綾神社」と改称した。以来百有余年神殿が著しく老朽腐蝕したので、有志相計り造営奉賛会を結成して募金をはじめ、昭和五十四年十二月神殿・社務所を新築、境内の整地、参道のつけかえ工事を完成した。
当社勧請については、次のような言い伝えがある。
「天長八年(831)この村の大空に八流の旗が流れ降った。人々は奇異の思いをなして打ち仰いだ。その時豊前の国宇佐の大宮司が七十五人を従えて尋ねて来た。彼等は宇佐八幡の『大空に旗を投げろ、その旗の落ちた処に鎮座して衆生を救おう』という託宣に従い、旗の後を慕って来たのであった。かくて、ここに三柱の神が鎮まりますことになったのだ」と伝える。また『日向地誌』諸県郡綾郷南股村・綾神社の頂に「(前略)旧称三の宮大明神と云ひしを明治三年庚午今の名に改む 相伝ふ本社元と本荘村神馬峰八幡宮なり 社祠宮永某の先神祇大夫実益故ありて綾に来り創建する所なりと年月詳ならす(後略)」とある。社司宮永氏の先祖宮永神祇太夫実益が勧請したとも伝える。実益はもと本庄村神馬峰八幡社の権祝であったが、当地へ移住、五ヶ所という地に祀った。その後天和元年(1681)現在地に遷座し旧地には小祠を建てて故宮と称した。
天和年間と天明年間に改築がなされ、明治初年には大修築を行い、町内二十五社を合祀して「綾神社」と改称した。以来百有余年神殿が著しく老朽腐蝕したので、有志相計り造営奉賛会を結成して募金をはじめ、昭和五十四年十二月神殿・社務所を新築、境内の整地、参道のつけかえ工事を完成した。

ご社殿

入口鳥居

神社正面
地図 [KML] [地図表示] | |
電話番号 | (0985)77-1860 |
郵便番号 | 880-1303 |
住所 | 宮崎県東諸県郡綾町南俣3005 |
御祭神 | 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう) 応神天皇(おうじんてんのう) 以上の三柱を正祀とし外に町内二十五社を合祀する |
旧社格 | 郷社 |
御神徳 | |
社殿 | 本殿(流造)30坪 社務所 22坪 |
創立年月日 | 淳和天皇天長年間 |
例祭日 | 十一月十八日 |
主な祭典 | |
文化財 | クスノキ 綾町指定文化財(昭和55年11月1日指定) 樹齢300年 樹高19㍍ 目通り幹廻り6㍍ |
駐車場 | 有り |
最寄ICからのアクセス | 宮崎西ICより車で約35分 |
最寄駅からのアクセス | |
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