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霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)
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往古霧島岑神社は高千穂峰の中腹瀬多尾(瀬戸尾ともいう)の高地に鎮座されていた。
承和四年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預り、のち従五位上を授けられる(『続日本後紀』)。天安二年(858)従四位下に叙せられる(『三代実録』)とあり、『延喜式神名帳』には日向の国式内四座の一つであると記されている。天慶天暦(十世紀)の頃性空上人が霧島岑神社に参籠の折山麓五方に夷守神社外四社を創建し本社である霧島岑神社(別名・霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。また、当社の鎮座地を瀬多尾といったので瀬多尾権現とも称し、別当寺を瀬戸尾寺と称したと伝える。
天永三年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し、社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧島王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと四八〇余年、享保元年(1716)新燃岳の噴火によって、社殿宝物類は焼失、ご神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は荒廃したので、享保十四年(1729)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を未だ築地という。
島津氏からも厚く崇敬され、島津義弘が飯野城にいた頃は、特に当社を敬仰し、度々参詣した。また、島津義弘寄進状によると、神領として毎年俵物一〇〇ずつ寄進している。
明治五年県社に列せられ、翌六年細野村に合祀の世論高まり、夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷した。明治十三年には霧島神宮(鹿児島県)の摂社となった。
承和四年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預り、のち従五位上を授けられる(『続日本後紀』)。天安二年(858)従四位下に叙せられる(『三代実録』)とあり、『延喜式神名帳』には日向の国式内四座の一つであると記されている。天慶天暦(十世紀)の頃性空上人が霧島岑神社に参籠の折山麓五方に夷守神社外四社を創建し本社である霧島岑神社(別名・霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。また、当社の鎮座地を瀬多尾といったので瀬多尾権現とも称し、別当寺を瀬戸尾寺と称したと伝える。
天永三年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し、社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧島王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと四八〇余年、享保元年(1716)新燃岳の噴火によって、社殿宝物類は焼失、ご神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は荒廃したので、享保十四年(1729)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を未だ築地という。
島津氏からも厚く崇敬され、島津義弘が飯野城にいた頃は、特に当社を敬仰し、度々参詣した。また、島津義弘寄進状によると、神領として毎年俵物一〇〇ずつ寄進している。
明治五年県社に列せられ、翌六年細野村に合祀の世論高まり、夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷した。明治十三年には霧島神宮(鹿児島県)の摂社となった。

ご社殿

鳥居

参道
地図 [KML] [地図表示] | |
電話番号 | (0984)23-3364 |
郵便番号 | 886-0004 |
住所 | 宮崎県小林市細野4937 |
御祭神 | 瓊々杵尊(ににぎのみこと) 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと) 豊玉姫命(とよたまひめのみこと) 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) 玉依姫命(たまよりひめのみこと) |
旧社格 | 県社 |
御神徳 | |
社殿 | 本殿(流破風造)8.75坪 拝殿20坪 |
創立年月日 | 不詳 |
例祭日 | 十一月十八日 |
主な祭典 | 一月七日 七草祝祭 祈年祭 三月十八日 大祓式 六月三十日・十二月三十一日 |
文化財 | |
駐車場 | 有り |
最寄ICからのアクセス | 小林ICより車で約25分 |
最寄駅からのアクセス | JR小林駅より車で約20分 |
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