槵觸神社(くしふるじんじゃ)

2012-5-3 17:38 投稿者:  office
当社には記紀に記されたところの「久士布流多気」、「槵觸二上峯」に鎮座し、この地は古来天孫瓊瓊杵尊御降臨の地と伝えられている。
江戸時代に三浦候が延岡城主となるや、十社宮(高千穂神社)の大宮司、田尻乗信の要請を容れ、元禄七年六月十五日に社殿が建立された。しかしこの地は、社殿建立以前から久士布流(くしふる)峰そのものが神山と崇められ、高千穂八十八社の一社に数えられていたから、その信仰はさらに上代にまでさかのぼるであろう。
元禄時代、延岡城主三浦直次の家臣岡田定賢の著した『串振記』には、
「ここに槵觸大明神の来歴を稽ふるに、日向国高千穂二上槵觸嶽は日本秋津州神道流布根源の地なり・・・天児屋根命即ち槵觸大明神の御事、春日大明神と同一体の御神なり」と書き記されている。
従って創建当時の祭神は天児屋根命を槵觸大明神として祀ったのであり、それゆえに天孫降臨の地として久士布流多気を日本神道発祥の地として理解し、神官職の宗源神ともいうべき天児屋根命を主神として祀ったのである。
明治六年五月二十五日、旧称槵觸大明神は二上神社と改称せられ県社に列したが、明治四十年二月神饌幣帛供進指定神社となっている。そして明治四十三年十一月十九日に旧社名に復し、槵觸神社と改められた。
明治時代は高千穂を訪れる識者も少なく、坪井正五郎・吉田東伍などその稀なる人であるが、大正に入りて学者文人の往来漸く繁く、鳥居・高柳・喜田・宮地・筧の諸博士などが来宮された。就中、宮地博士は高千穂神社をはじめ当時の古文書を隈なく渉猟し、神祇資料を整えてその保存を指導せられた。喜田博士は日向史編纂にあたり高千穂を特に重視せられ、筧博士は大正の御代貞明皇后に惟神の道と高千穂の神蹟を講ぜられ、皇后宮の思召にて版本となった筧博士著『惟神の道』の講本は、全国の地方庁、官国弊社とともに、特に高千穂・槵觸両神社にも下賜なされている。この御縁によってか大正十四年春三月には秩父宮雍仁親王殿下の参拝があり、その後昭和の御代に入りては、梨本宮同妃両殿下の御成(九年秋)、秩父宮同妃両殿下(九年十月)、久松侍従(十年十一月、特別大演習)、皇太后宮側近女官(十五年秋)、三笠宮崇仁親王殿下(十七年九月)他、朝香大将宮、賀陽の姫宮など相前後して参詣をかたじけなくしている。
戦後は昭和三十年六月に高松宮宣仁親王殿下が初めて御成賜ったが、四十一年十一月には、天孫降臨の聖地高千穂顕彰のため、槵觸神社横、高天原遙拝所裏に建立された「高千穂碑」建立の名誉総裁として、除幕式御親修のために再び御参詣を賜っている。常陸宮正仁親王殿下の御成は昭和三十八年八月であった。
槵觸神社の鎮座する槵觸嶽の裾には、樹齢約三千年とも云われるケヤキの神木に囲まれた天真名井があり、その下を神代川(くましろがわ)が流れている。その創建の由来からして、槵觸の峰は高千穂宮縁由の聖地であり、高千穂宮は高千穂宮は高千穂皇神神号の淵源であって、槵觸の社殿が高千穂神社の分祠として建立された事跡を思えば、まさに両社は一体不離の関係にあり、ともに天孫降臨の聖地高千穂を代表する重要な神社といえよう。
当神社は、昭和五十八年十二月に約三百年ぶりの御造営が行われ、本殿拝殿や社務所などの造営が完成している。
ご社殿
ご社殿
正面鳥居
正面鳥居
参道
参道
地図

電話番号(0982)72-6354
郵便番号882-1102
住所西臼杵郡高千穂町三田井713番地
御祭神天孫瓊々杵尊(てんそんににぎのみこと)
御神徳古来武神として信仰され、スポーツ競技や交通安全の神さまとして信仰が篤い。
旧社格 県社
社殿本殿(流造)10坪 拝殿(入母屋造)27坪
創立年月日元禄7年(1694)6月15日
例祭日10月の体育の日
主な祭典
文化財本殿の彫刻
駐車場有り(10台)
最寄ICからのアクセス松橋IC、益城熊本空港ICより高千穂方面に約75キロ
最寄駅からのアクセス